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| 歴史探訪は米沢に残る遺跡などをわかりやすく説明したもので、平成5年4月から平成10年4月まで広報よねざわに連載されものを収録しています。 |
| 前田慶次の遺品 米沢に残る遺品の数々 |
| 今月は、先号に紹介した「かぶきもの」前田慶次の、米沢に残る遺品について紹介します。
慶次は、米沢郊外の堂森で悠々自適の隠居生活を過ごしたと前回触れましたが、一方では、関ヶ原合戦後に上杉家を離れ、慶長10年(1605)に大和国刈布村(奈良県)で没したという説もあります。 両説とも確証がなく、一般には没年・没地不詳となっていますが、米沢には次に述べるように慶次に関わる遺品が残っていて、堂森で死去した説を強く裏付けています。 【宮坂考古館の赤塗りの甲胄】
慶長5年(1600)の上杉軍と最上軍の戦で、慶次は退却する上杉軍の殿をつとめ、朱塗りの長槍を振りかざして大活躍しましたが、あるいは、この赤塗りの甲胄を着用していたのかもしれません。 また、川西町の掬粋巧芸館(きくすいこうげいかん)にも慶次の甲胄があります。これも上杉家から譲られたもので、同じ笠形の兜、朱塗りの胴と、宮坂考古館の甲胄とよく似た派手な甲胄です。 【図書館所蔵の「前田慶次道中日記」】 市立米沢図書館所蔵の「米沢善本」は、内容の優れた貴重な書籍208部を集めたもので、市の文化財に指定されていますが、その中の一つに「前田慶次道中日記」があります。 この日記は、慶長6年10月26日、慶次が京都伏見を発ち、翌11月19日に米沢に到着するまでの26日間の道中日記で、慶次自筆本と伝えられています。道中の様子や土地の逸話などと共に、慶次の詠んだ俳句・和歌・漢詩も記され、文学への深い造詣もうかがえます。板谷では「あつさ弓いたや越するかりは哉」と詠んでいます。 このほか、慶次が晩年に住んだ堂森地区に、慶次が使用したと伝えられる槍と編笠を所蔵する家もあります。 |
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