城下町ふらり歴史探訪

 「城下町ふらり歴史探訪」は、米沢に残る史跡などをわかりやく解説しています。
 これまで「広報よねざわ誌面」で紹介してきた記事を再編集して掲載しています。


藁科松伯の墓 相生町

米沢藩医で上杉鷹山を補佐した家臣を育て、細井平洲を鷹山の師範に推薦した人物


藁科家の墓、松伯の墓石は左側一番手前の墓石です

善立寺に安置されている松伯の坐像

善立寺(ぜんりゅうじ)にある藁科松伯貞祐(わらしなしょうはくさだすけ)の墓です。
「菁莪館」に学んだ人々
 松伯は元文2年(1737)に米沢藩医藁科周伯(しゅうはく)の嫡子に生まれました。周伯は若くして亡くなり、松伯は12歳で藁科家を継ぎます。宝暦7年(1757)から江戸勤めとなり、3年間勉学に励みました。同9年に8代藩主重定の近習、翌年には重定の養子となった鷹山の学問師範に命じられ、同12年に重定の御側医に就きました。
 松伯は学問に優れ、博学強記米沢第一と称されたと言います。松伯の書斎「菁莪館(せいがかん)」には、竹俣当綱(たけのまたまさつな)、莅戸善政(のぞきよしまさ)、木村丈八(きむらじょうはち)など俊才が集まり、指導を受けました。後に鷹山の改革を補佐した家臣の面々です。
平洲を鷹山の師範に推薦
 師範選定の経緯は、松伯の遺稿集「菁莪館遺稿(せいがかんいこう)」に平洲が寄せた序文に記されています。江戸遊学中の松伯が偶然、平洲の講釈を聞き感心し、その後奉行となった竹俣の師に推薦、平洲に入門した竹俣は藩主重定に平洲を推挙し、師範に決まりました。平洲は序文で、鷹山の師範となったのは「皆松伯の言を以てなり」と感謝しています。
 平洲の初講義は明和元年(1764)、平洲37歳、鷹山14歳、松伯28歳の初冬でした。この頃既に松伯は病気におかされ、春先には御側医を辞任しています。
治療で帰国し33歳で死去
 明和4年(1767)、鷹山が17歳で9代藩主となると、松伯は病気をおして鷹山の御側医となりますが、同5年の秋頃に治療のため米沢に戻りました。鷹山と平洲は帰国する松伯に、送別の漢詩を贈っています。
 帰国した松伯は鷹山の将来を案じながら療養しますが、その甲斐なく同6年8月24日に33年の短い生涯を閉じました。辞世の句は「今朝の露とわれも消えり草の蔭」です。
 同8年、平洲は初めて米沢に来て鷹山や藩士を指導しますが、松伯の命日に善立寺を訪れ、哀悼の和歌三首を手向け、墓前に涙しました。

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