城下町ふらり歴史探訪

 「城下町ふらり歴史探訪」は、米沢に残る史跡などをわかりやく解説しています。
 これまで「広報よねざわ誌面」で紹介してきた記事を再編集して掲載しています。


米沢藩主葬礼場跡 大字笹野

3代藩主・上杉綱勝から7代藩主・宗房までの5人の藩主と綱勝正室の媛姫の葬式が執り行われた場所


米沢興譲館高校の東側のソバ畑に囲まれた
米沢藩主葬礼場跡

看板には、西側に斜平山と羽山神社、愛宕神社、幸徳院笹野寺があることから、西方三山を背にした極楽浄土の地であるとしてこの地が選ばれたと書いてあります。

景勝・定勝の葬儀
 初代藩主・景勝は米沢で死去し、「城西ノ郊原ニ於テ経営アリ」(『上杉家御年譜』)と、現在の御廟所近辺で火葬され、廟所が建てられたと考えられています。遺骨は高野山に納められ、廟屋も建立されました。2代藩主・定勝も米沢で死去し、遠山村山麓で火葬されたと記録に見えますが、その場所は確定されていません。
笹野村大壇で媛姫の葬式が
 大壇で最初に葬式が行われたのは万治元年(1658)のことです。綱勝の正室の媛姫(はるひめ)が江戸で死去し、その遺骸は米沢に運ばれ、直ちに林泉寺において火葬され、8日後に笹野村大壇で葬式が執行されました。
 綱勝が江戸在府にもかかわらず、何故米沢まで運んで葬式を行ったのかは不明です。媛姫が幕府中枢の会津藩主・保科正之の娘であったためなのか、また死因が保科家内の争いによる毒殺とも言われており、その影響があったためなのでしょうか。火葬と葬式を分けたのは、江戸から遺骸を運んだため傷みがあり、直ちに火葬する必要があったからだと考えられます。媛姫の墓は林泉寺に建てられ、遺骨は高野山に納められ石宮が建てられました。
3代綱勝から7代宗房の葬儀
 寛文4年(1664)、綱勝も江戸で死去し、遺骸は米沢に運ばれ御廟所で火葬され、大壇で盛大な葬式が行われました。以後、7代藩主・宗房まで、米沢藩主の葬儀は全て火葬が御廟所、葬式が大壇にて執り行われ、高野山に納骨されました。
 延享3年(1746)の宗房の葬儀記録を見ると、火葬された遺骨は龕(がん)(棺桶)に納められ二の丸の法音寺に安置し、葬式の朝6時に出棺、500人を超す大葬列が笹野村に向かい、道中には薦(こも)2枚を敷き並べました。
 葬場には四門(しもん)(密教では曼荼羅(まんだら)の四方の門)、位牌所、御休所などが設営され、僧侶の読経の中、藩主親族、重臣の焼香が続き、龕に火が付けられ、それと同時に鷹3羽が放たれました。
 宗房の葬儀が大壇での最後の葬式でした。寛政10年(1798)の8代藩主・重定の葬儀からは土葬に改められ、御廟所において葬式が執行されました。
 その後、1町(3000坪)程の広さの大壇葬礼場は畑地となりましたが、平成21年に粕平・上杉家史跡保存会によってその一部が整備され、現在に至っています。

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