城下町ふらり歴史探訪

 「城下町ふらり歴史探訪」は、米沢に残る史跡などをわかりやく解説しています。
 これまで「広報よねざわ誌面」で紹介してきた記事を再編集して掲載しています。


 浅間 厚斎之碑 丸の内一丁目

米沢藩に西洋砲術と大砲を導入した藩士


松が岬公園の北西側の土塁に建つ浅間厚斎顕彰碑

篆刻は旧藩主の上杉斉憲、碑文は門人の小田切盛徳(長男の万寿之助は上海総領事、横浜正金銀行取締役)の選です。

江戸で西洋砲術と大砲製造を学ぶ
 厚斎(こうさい)(厚斎は号・本名は浅間翁助親賢)は文化2年(1805)に御馬廻組の尻高光隆の次男として生まれ、五十騎組の浅間家の婿養子となりました。天保4年(1833)から藩校興譲館で寄宿生として3年間学び、同10年(1839)に34歳で家督、翌11年から再び興譲館に入り助読(通学生を指導しながら学ぶこと)を3年間勤めました。その後、藩主夫人の目付(側役)を勤める中、西洋砲術の重要性を認識しました。
 日本の西洋砲術は長崎の高島秋帆(茂敦)がオランダ人から学んだことに始まり、伊豆の韮山代官・江川太郎左衛門(英龍)に伝授されました。
 嘉永3年(1850)、厚斎は江川の門人・井狩作蔵が江戸で砲術を教えていることを知り、自分入料(自己負担)で江戸に登って門人となり、西洋砲術を習得しました。ただし、弾丸・火薬などの経費のため、浅間家では衣服や什器を売り、質素清貧な生活を余儀なくされ、周囲から失笑されたとの苦労話が石碑に刻まれています。
大砲製造し鉄砲総支配に昇進
 江戸で学んだ厚斎は、翌4年8月、銅屋町の鋳物師・鈴木善兵衛と共にハンドモチールと称される大砲を鋳造し、発砲演習を行いました。師匠の井狩は高弟の岡健蔵を派遣、発砲は成功し、厚斎は小判10枚、岡は小判3枚の褒賞を受けました。
 嘉永6年のペリー艦隊の浦賀来航は日本中を驚かせると共に、西洋砲術の優位性を認識させました。米沢藩でも加速的に火縄銃から西洋砲術への転換が図られます。厚斎は洋式銃隊総裁として西洋砲術を指導し、文久2年(1862)には米沢藩鉄砲隊のトップである鉄砲総支配に任命されました。
 また、大砲製造も続け、銅屋町の鈴木清兵衛に12封度加納や6封度ランケホイッスルなどを鋳造させました。
明治17年に門人たちが建立
 厚斎は文久3年(1863)に57歳となり隠居しました。その後の戊辰戦争では、厚斎が指導した西洋砲術隊が越後戦線などで活躍しました。明治9年に72歳で死去、墓は西蓮寺にあります。
 明治17年、門人たちが厚斎を偲び顕彰碑を建てました。碑文は著名な書家・吉田晩稼の筆で、上山の石工・西川彦七が刻んでいます。吉田は長崎で高島から砲術を習った所縁もあります。

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