城下町ふらり歴史探訪

 「城下町ふらり歴史探訪」は、米沢に残る史跡などをわかりやく解説しています。
 これまで「広報よねざわ誌面」で紹介してきた記事を再編集して掲載しています。


 長命寺本堂 中央三丁目

現存する唯一の旧米沢城の建物遺構


長命寺

上杉謙信公位牌
不識院殿前関東管領権大僧都法印真光謙信神儀と刻まれる。

棟札(左側は赤外線写真)
法音寺・大乗寺や大工など多くの関係者の名が記される。

謙信遺骸を祀る御堂の変遷 
 上杉謙信が越後の春日山城で永眠したのは天正6年(1578)3月13日のこと、享年49でした。遺骸に甲冑を着せ、大きな甕(かめ)に納め、漆や塩で密閉したと言われています。その後、跡を継いだ上杉景勝と共に会津、米沢に移されました。
 景勝は謙信の遺骸を米沢城に安置し、慶長14年(1609)は日当たりの良い本丸東南隅の高台に御堂(みどう)(霊廟:れいびょう)を建立、二の丸には御堂に仕える真言宗寺院を並べ置きました。本丸に遺骸、二の丸に寺院を配置する城は珍しいもので、いかに景勝が謙信を崇敬していたかが伺われます。
 御堂には歴代藩主の位牌が並べられ、最も神聖な場所として篤(あつ)く信仰されました。上杉鷹山が天明の飢饉(ききん)の際、御堂に篭(こも)って天候回復を願った話が有名です。
 しかし、幕末の嘉永2年(1849)の暮、火災により御堂が焼失、消火にあたった藩士1名が焼死する事故がおきました。直ちに再建が進められ、翌3年に現在の御堂が完成しました。
 その後、明治維新を迎え、明治5年に謙信・鷹山を祭神とする上杉神社が認可され、同9年には本丸御殿跡に社殿が創建されました。それに連動し、謙信の遺骸は歴代藩主の眠る御廟所に移され、御堂内は空になりました。
明治10年、長命寺に移築
 長命寺(ちょうめいじ)は真宗大谷派の寺院で、上杉家との関わりで信州から越後、会津、米沢に移り、北寺町に寺地を賜りました。本山の東本願寺から、御坊(ごぼう)の寺格が与えられたお寺でもあります。文政7年(1824)の亥ノ子屋(いのこや)火事で類焼しますが、同11年には再建されました。
 しかし、明治8年に本堂が火災で焼失、再建する際に着目されたのが、まだ新しく中が空となっていた御堂でした。住職と檀家は建物を管理する米沢義社(旧藩士が設立した会社)に払い下げを要請、同9年末に許可となり、同10年、御堂は長命寺に移され、本堂に改築されました。
 払い下げの時、御堂内にあった嘉永3年再建時の棟札(むなふだ)(建物の由緒・建築年月日・建築者・大工などを記録した木札)、法華経六巻、上杉謙信公位牌が一緒に移され、長命寺の寺宝として大切に保管されています。真宗大谷派の寺院に法華経は違和感がありますが、謙信遺骸を祀(まつ)る御堂が移築された由緒を示す、貴重な文化財です。

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