城下町ふらり歴史探訪

 「城下町ふらり歴史探訪」は、米沢に残る史跡などをわかりやく解説しています。
 これまで「広報よねざわ誌面」で紹介してきた記事を再編集して掲載しています。


竹俣当綱の墓 南原横堀町

藩政改革を主導した人物


常慶院本堂の南東、竹俣家墓域の隅にあります。

竹俣当綱像 上杉博物館蔵

 竹俣当綱(たけのまたまさつな)は上杉治憲(鷹山)時代の奉行(国家老(くにがろう))で、藩政改革を主導した人物です。
名門竹俣家に生まれ奉行に昇進
 当綱は享保14年(1729)9月17日に竹俣本綱(もとつな)の長男として誕生しました。竹俣家は、越後時代は竹俣城(新発田市)の城主で、上杉家に従い会津・米沢に移った名門です。
 当綱3歳の時に父が病死し、18歳の時に祖父より家督、禄千石で侍組に入ります。宝暦11年(1761)には江戸家老に昇進し、同13年に藩主重定の寵臣(ちょうしん)・森平右衛門(もりへいえもん)を誅殺(ちゅうさつ)しました。その後、奉行に昇進し国政を担当、重定に倹約や改革を迫りますが容易に進みません。当綱は重定に隠居を進言、明和4年(1767)ようやく重定は48歳で隠居しました。
改革を主導するが失脚
 第9代藩主となったのが養子の治憲(鷹山)で17歳でした。当綱は39歳、鷹山の右腕として藩政改革を力強く主導します。江戸の豪商三谷家から資金援助を受け、漆(うるし)・桑(くわ)・楮(こうぞ)の各百万本植立、越後から縮織職人を招聘(しょうへい)、郷村出役(ごうそんしゅつやく)の派遣などの農政改革、藩校興譲館の開設など、諸改革を断行しました。
 しかし、改革の成果は直ぐには表れず、天明2年(1782)に取行不届(とりおこないふとどき)の理由で隠居押込(いんきょおしこめ)の処罰を受けました。当綱は幽閉中でも改革意見書を書き続け、後には罪も赦(ゆる)されましたが、寛政5年(1793)に65歳で死去しました。法名は大忠院殿雄山良英居士です。
平洲の墓碑銘とその後の顕彰
 墓は竹俣家の菩提寺である南原の常慶院にあり、鷹山の師・細井平洲の記した墓碑銘が刻まれています。平洲は、邪を払ったこと(森誅殺)、鷹山の先生に儒学者を採用し学問を広めたこと、農村に教導役を派遣し教化したことなどの功績を讃(たた)えています。また「物を処する果敢なり、故に毀誉(きよ)は交(こも)ごもに至る」と、強い決断力があり、そのため評価が分れるとも記しています。改革を始めるには、こうした強いリーダーシップが必要であったと思われます。
 その後、次第に改革の成果が表れ、天保7年(1836)に上杉斉定(なりさだ)は幕府より鷹山以来の善政を賞されました。その際、当綱は中興第一の功臣として碑面に銀10枚が贈られます。また、明治41年には正五位に追増、昭和13年には松岬神社に合祀されました。

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