城下町ふらり歴史探訪

 「城下町ふらり歴史探訪」は、米沢に残る史跡などをわかりやく解説しています。
 これまで「広報よねざわ誌面」で紹介してきた記事を再編集して掲載しています。


 富山の薬売りを顕彰する石碑

酬恩碑(塩井町塩野)  石灰開祖碑(大字大小屋)


石灰開祖碑

青木伝次の酬恩碑:恩に酬(むく)いる碑

青木 伝次-置賜に馬耕法を伝授
 塩井の薬師堂(やくしどう)(塩井町塩野2162番地)境内の酬恩碑(しゅうおんひ)は青木伝次(あおきでんじ)に感謝して建てられたものです。
 伝次は慶応元年(1865)に越中(富山県)の農村に生まれ、農業に従事するかたわら、農閑期には越中富山の薬売りとして各地を行商しました。その行商中に塩井を訪れ、備中鍬(びっちゅうぐわ)で苦労して田を耕す村人たちを見たのです。伝次の地元富山では既に馬を使った馬耕法(ばこうほう)が広まっており、その便利な技術を教えようと、明治32年に富山から馬耕機(富山犂(とやますき))を持参し、その使い方まで指導しました。
 馬耕機は伝次と地元の鍛冶屋で改良が加えられて更に便利になり、置賜一円に広まって農家の重労働を軽減させました。村人は伝次を「先生」と慕い、明治34年(1901)に石碑を建て感謝したのです。
 時に伝次は36歳。その後、富山で村会議員となり、69歳で亡くなりました。この酬恩碑は、平成15年12月13日の「読売新聞」で全国に紹介され有名です。
篤之助-石灰鉱山の開発に尽力
 一方、山上の石碑は大字大小屋清水の斉藤家の畑の中に、ひっそりと建っています。正面に「石灰開祖碑(せっかいかいそひ)」「施主中」「越中国 篤之助」、碑が建てられた年号「明治十三年三月二十二日」が刻まれ、裏面には石碑を建てた地元の人たち29人の名前が刻まれています。
 『山上郷土史』によれば、篤之助(とくのすけ)は富山の薬売りで、茶屋・旅館を営む斉藤家に宿泊し、地元の人々に技術を教えていたといいます。関根の石灰鉱山も、篤之助の指導で開発されたのでしょうか。
 その後、篤之助は斉藤家で亡くなり、教えを受けた29人が、その功績をたたえて石灰開祖碑を建て供養したのです。
 薬を売るかたわら、各地に情報や技術を伝えた富山の薬売りの功績と、その恩に厚く感謝する米沢人の暖かい心を示す石碑です。

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