城下町ふらり歴史探訪

 「城下町ふらり歴史探訪」は、米沢に残る史跡などをわかりやく解説しています。
 これまで「広報よねざわ誌面」で紹介してきた記事を再編集して掲載しています。


 堀 粂之助の墓 東寺町

悲劇の会津藩士

堀粂之助の墓
龍泉寺(りゅうせんじ)にある堀粂之助の墓


墓前祭

会津藩からの使者
 粂之助(くめのすけ)は天保9年(1838)に、会津藩士・堀清左衛門(ほりせいざえもん)の長男として生まれました。文武に優れ、藩校南学館(なんがくかん)[身分の低い藩士の学校。上級藩士の子弟は日新館(にっしんかん)に学んだ]の助教となり、京都では精選組(せいせんぐみ)隊士となります。
 戊辰(ぼしん)戦争が始まると、藩主・松平容保(まつだいらかたもり)と共に会津へ戻り新政府軍と戦いますが、明治元年(1868)8月23日に会津若松城は、新政府軍に包囲され、厳しい籠城(ろうじょう)戦が始まりました。この危機に、堀粂之助と吉村寅之進(よしむらとらのしん)二人は、容保から米沢藩へ援軍依頼の命を受け、敵の包囲網をくぐりぬけて米沢に向かいました。
使命は果たせず…
 二人の米沢到着は9月3日、直ちに米沢藩首脳に援軍要請しました。しかし時すでに遅く、米沢藩は新政府軍への降伏を決意した直後でした。
 米沢藩は奥羽越列藩同盟の主軸として、主に越後で新政府軍と激戦を交えました。一時は長岡城奪回に成功しましたが、7月29日には新潟港が陥落し総督の色部長門(いろべながと)も戦死、8月中旬には敵兵が国境に迫る勢いでした。そうした中、上杉家と親戚の高知藩山内(やまうち)家や広島藩浅野家等から降伏斡旋が届き、ついに降伏を決めたのです。
 援軍が無理と悟った粂之助は、米沢藩が駄目なら仙台藩に依頼すべきとする吉村の意見を容れず、使命を果たせなかったとして、9月5日(新暦では10月20日)に宿舎で割腹しました。享年31でした。

 辞世の歌は、

   神かけて 誓ひしことの かなはねば ふたたび家路 思はざりけり

遺体は、その死を悼んだ米沢の人たちによって龍泉寺に葬られました。
現在に続く慰霊
 昭和46年、悲劇の会津藩士の事蹟を顕彰しようと墓が整備され、墓碑や辞世の歌を刻む石碑が建てられました。墓碑の揮毫(きごう)は、松平容保の孫にあたる松平勇雄参議院議員によります。今でも市内や会津から多くの人が墓参に訪れています。毎年、10月20日に墓前祭が催されます。

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