城下町ふらり歴史探訪

「城下町ふらり歴史探訪」は、「広報よねざわ誌面」で紹介してきた記事で、米沢市に残る史跡などをわかりやく解説しています。

「1.普門院」から「60.聖堂(先聖殿)と鷹山筆の扁額」は平成5年5月1日号から平成10年4月1日号、
「61.堀粂之助の墓」から「86.観世音堂の裁縫絵馬」は平成26年10月1日号から平成29年9月1日号の記事を転載し、一部再編集したものを掲載しています。

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餐霞館遺跡 米沢市城南一丁目

鷹山公隠居後の住居跡

 今月は上杉鷹山が隠居後に住んだ「餐霞館(さんかかん)」の遺跡を訪ねてみました。
 天明5年(1785)2月、鷹山は35歳で隠居し、家督を養父重定の次男治広に譲りました。この時治広に藩主の心得として渡したのが有名な「伝国の辞」です。そして9月には、米沢城本丸から三の丸の餐霞館に、側室お豊の方と長男顕孝と共に移り、以後72歳で亡くなるまでの38年間、治広および斉定の藩政をこの住居で指導しました。
 土地の広さは約3,000坪で、餐霞館は上段・二の間・寝間・書斎や奥方の部屋など40あまりの部屋がある大きな平屋の建物でした。ただし、生活は以前と同じく質素を心がけ、生活費増額の申入れを断わっています。
 「餐霞館」の名の由来は、霞を食べる事、つまり世俗を離れ仙人のような清貧の生活を営む住居の意味と思われます。また、城の南に位置するので「南亭(なんてい)」とも呼ばれました。
 鷹山は餐霞館で藩政を指導すると同時に、長男顕孝や甥の宮松(後の斉定)の藩主教育にも情熱を注ぎました。
 天明5年、餐霞館に移った時、顕孝は10歳で、世子(藩主の跡継ぎ)となりました。鷹山はこの顕孝の周りに仕える家臣に対し、14ヵ条からなる壁書を示し、最後に「なせば成るなさねば成らぬ何事も成らぬは人のなさぬなりけり」の歌を添えました。
 壁書の内容は、「孟母三遷(もうぼさんせん)」のたとえにもあるように、周囲の言行が大切であるとし、世子の近くで話すべき7ヵ条(孝行・譲・武勇・家臣・農事・文芸など)と話すべきでない7ヵ条(金銭の損得・飲食・軽口・悪口など)を示したものです。様々な情報が入り込んでくる現代社会には、耳の痛い内容です。
 顕孝は鷹山や家臣たちに期待されていましたが、惜しいことに19歳で病気で亡くなりました。その後鷹山は、世子宮松と寝食を共にし、藩主教育に勉めました。
 餐霞館は鷹山の死後、支侯(分家)の住居となりましたが、明治以後は一部が公園となり、昭和45年、鷹山公初入部200年を記念し庭園が整備され、顕彰碑が建てられました。顕彰碑には三坂耿一郎作の鷹山のレリーフと「なせば成る……」の歌が刻まれています。

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