城下町ふらり歴史探訪

「城下町ふらり歴史探訪」は、「広報よねざわ誌面」で紹介してきた記事で、米沢市に残る史跡などをわかりやく解説しています。

「1.普門院」から「60.聖堂(先聖殿)と鷹山筆の扁額」は平成5年5月1日号から平成10年4月1日号、
「61.堀粂之助の墓」から「86.観世音堂の裁縫絵馬」は平成26年10月1日号から平成29年9月1日号の記事を転載し、一部再編集したものを掲載しています。

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上杉家廟所 米沢市御廟一丁目5-32

歴代米沢藩主の墓所

杉木立の中に並ぶ歴代藩主の廟
杉木立の中に並ぶ歴代藩主の廟

正面中央の上杉謙信廟
正面中央の上杉謙信廟

 前回の普門院に続いて、同じく国の史跡に指定されている御廟所を訪ねてみました。
 正式な名称は米沢藩主上杉家墓所。その名のとおり、歴代の米沢藩主の墓(廟)が並び、市民からは御霊屋(おたまや)と呼ばれ親しまれています。正面中央の奥は、戦国の雄将で藩祖と尊敬される上杉謙信の遺骸を安置する廟(ひ宮)です。
 言い伝えでは、謙信の遺骸は、甲胄を着せたまま漆で固めて甕に密閉し、埋葬されたと言われています。上杉氏の移動にともない、越後春日山から会津若松、さらに米沢に運ばれ、江戸時代は米沢城本丸に手厚く祀られていましたが、明治9年にこの御廟所に移されました。
 この御廟所の地は、初めは謙信の遺骸の避難場所でしたが、元和9年(1624)に初代藩主の景勝が亡くなり、藩主の墓所となりました。遺体は火葬にされ、遺骨は高野山に納め、ここには灰や衣服を埋めて五輪塔を置き、入母屋(いりおもやしき)式の廟屋を建てました。
 以後、七代藩主の宗房まで、同じ形式で、左右交互に廟が造られました。景勝の廟屋は約370年前の建物となります。
 向かって左側、九代藩主治憲(鷹山)の廟の左となり一段下ったところに、やや小さな廟があります。これは鷹山の長男顕孝(母はお豊の方)の廟です。
 顕孝は十代藩主治広の世子(跡継ぎ)となり、次期藩主として期待されていましたが、19歳で病気のため亡くなりました。鷹山はじめ藩内はたいそう悲しみ、これまで世子は林泉寺に墓がつくられていましたが、顕孝の場合は特別に歴代藩主の墓所に葬られました。
 また、この時から火葬して遺骨を高野山に納める慣習が改まり、顕孝は土葬となりました。
 なぜ土葬に変わったかは不明ですが、鷹山が、わが子を焼くには忍びない、と改められたとも伝えられています。以後、八代藩主の重定から治憲・治広・斉定と土葬となり、廟屋は方形(ほうぎょう)造りと変わりました。
 杉木立のなかに整然と並ぶ廟屋は、名門上杉家や米沢藩の歴史を、静かに語りかけてくれます。

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