城下町ぶらり歴史探訪

 歴史探訪は米沢に残る遺跡などをわかりやすく説明したもので、平成5年4月から平成10年4月まで広報よねざわに連載されものを収録しています。

色部長門追念碑 丸の内1丁目
 戊辰戦争の罪を一身に受けた色部長門を顕彰

 米沢藩総督、色部長門(いろべながと)新潟で戦死

  今月は、上杉記念館の裏に建つ色部長門追念碑を紹介します。戊辰戦争で戦死した色部長門久長を顕彰・慰霊する石碑です。
 戊辰戦争で米沢藩は、奥羽越列藩同盟の盟主として越後方面の警備を担当、色部長門は総督に命じられ藩兵約600を率い出陣しました。本陣を関屋(新潟市)に置き、戦略上の要地である新潟港の管理にあたる一方、前線の指揮にあたりました。
 しかし、戦況は次第に新政府軍が優勢となり、色部の守る新潟港にも薩摩藩の大軍が攻め寄せました。
 このため色部総督は、同盟軍に解散・帰藩を命じ、自らは最後に出発しましたが、その撤退てったいの途中で薩摩軍と遭遇。ここで逃げれば米沢藩の名誉にかかわると、敵の大軍に斬り込み壮絶な戦死をとげました。慶応4年(1868)7月29日、久長44歳でした。

 戦争首謀者に色部の名が届けられる

 戊辰戦争の終了後、米沢藩へは藩主斉憲の隠居(茂憲が家督)と4万石の召し上げの処罰が下され、戦争首謀者の調査が命じられました。
 米沢藩はこの命令に苦慮し、すでに戦死した色部を届け出ました(仙台・山形藩は家老を届け出、斬首の極刑に処された)。このため、米沢藩では処刑者は出ませんでしたが、色部家は罪を負って断絶となりました(明治16年にようやく許された)。

 新潟に建てられた追念碑と米沢の建碑

 昭和7年、関屋戊辰戦蹟保存会によって色部が戦死した場所(県立新潟高校前の戊辰公園)に「色部長門君追念碑」が建てられました。高さ3.8メートルの石碑には、「身ヲ挺シテ新潟警備ノ責ニ任ジ、其安寧(そのあんねい)秩序ヲ保持」と、新潟警備に尽くした色部の功績と慰霊の文が刻まれています。
 また米沢市でも、戦争首謀者として罪を一身に受けた色部長門を、米沢の大恩人として顕彰しようと、西条信哉等の提唱によって色部長門顕彰会が結成されました。広く建碑のための寄付金を募り、昭和38年に市制70周年記念事業の一環として上杉伯爵邸内に「色部長門追念碑」が建てられました。高さは台座から4.5メートル、その揮毫は図書館長の岡博によります。
 記念館の裏にあることから、訪れる人も多くありませんが、米沢の歴史の一頁を静かに物語る石碑です。


色部長門追念碑