城下町ぶらり歴史探訪

 歴史探訪は米沢に残る遺跡などをわかりやすく説明したもので、平成5年4月から平成10年4月まで広報よねざわに連載されものを収録しています。

武田信清の墓 林泉寺1丁目
 武田信玄の六男の墓が米沢に

武田信清の墓

林泉寺武田家墓所の奥にある信清の墓

 今月は、前回訪ねた林泉寺の一画にある、県指定の史跡、武田信清の墓を紹介します。
 信清は、上杉謙信と川中島で激戦を交わした戦国の名将武田信玄の六男(七男の説もある)です。また、上杉景勝の正室菊姫の弟にあたります。
 信玄の死後、武田家を継いだ四男勝頼は、天正3年(1575)の長篠の合戦で織田・徳川の連合軍に敗れ、同10年(1582)で天目山で自刃、武田家は滅びました。
 この時、信清は僧姿に変装し高野山に逃れ、後に、姉の嫁ぐ景勝を頼り越後に来ました。義を重んじる景勝は、妻菊姫の弟で名門武田家の流れをくむ信清を大事な家臣として迎え、3000石の知行を与えました。
 その後、上杉家の移封に伴い信清も会津、米沢と移り、会津120万石時代には3300石の高知行を賜り、米沢藩時代では藩主親族とし高家衆筆頭(こうけしゅうひっとう)に遇され1000石を賜りました。
 寛永19年(1642)3月21日に80歳(83歳とも伝えられている)で病死、上杉家の菩提寺林泉寺に葬られました。法名虎山玄竜居士。 そして、信清の子孫も代々高家衆筆頭として米沢藩に仕え、幕末に至っています。

 【祖師西来意と刻む大きな五輪塔】
 信清の墓は、林泉寺本堂の南側に位置する武田家墓域の中の、一段と大きな五輪塔です。高さ2.3メートル、一番下の地輪(方形)の一辺は77センチと大きく、五輪の各輪に禅の公案(修練の問題)である「祖師西来意」の五文字を、一字ずつ刻んでいます。昭和二十八年、山形県の史跡に指定されました。

 【信玄の遺言にも一致】
 甲州流軍学書の『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』には、信玄は死に臨み、跡継ぎの勝頼に対し「謙信は義理がたい武士だから、頼むとさえ言えばけっしてその人を見捨てるようなことはない(中略)勝頼は必ず謙信と和睦して、これに頼れ」と遺言したことが記されています。
 この話が真実かどうかは知る術はありませんが、その後、この遺言に従ったかのように、信玄の六男信清が、かつて川中島で激しく戦った上杉家を頼り、幕末まで上杉家家臣として続いたことはまぎれもない事実です。
 この信清の墓は、武田家の数奇な運命と共に、上杉家の義に厚い家風を偲ばせる史跡でもあります。