城下町ふらり歴史探訪

 歴史探訪は米沢に残る遺跡などをわかりやすく説明したもので、平成5年4月から平成10年4月まで広報よねざわに連載されものを収録しています。

法泉寺と文殊堂 西大通1丁目
 米沢の文教の発祥地

 今月は、米沢における文教の発祥地として知られる法泉寺と、同寺の庭園や境内の文殊堂を訪ねてみました。
 法泉寺は、元和4年(1618)直江兼続によって創設された臨済宗の寺院で、初めは禅林寺という名前でした。兼続は足利学校で修業させた九山和尚を呼び寄せ、兼続や九山が集めた図書を備え、米沢藩士の子弟を教育するための学問所としました。
 それは禅林文庫と呼ばれ、ここに起こった学問の流れや蔵書は、藩校興譲館へと受け継がれ、現在この蔵書は市立米沢図書館などに伝わり貴重な文化財となっています。こうしたことから、法泉寺は米沢の文教の発祥地と呼ばれているのです。
 元禄3年(1690)に、二代藩主定勝の三女亀姫の法名(法泉院殿)をとり、禅林寺から法泉寺と寺名が変わりました。法泉寺にはこの亀姫の墓と共に、定勝の四女で、吉良上野介義央の奥方となった三姫(富子)の墓もあります。三姫の墓から白髪の髻が入った壺が見つかり、三姫が持っていた上野介の遺髪ともいわれ、「忠臣蔵」の隠れた史跡として最近注目されています。
 法泉寺の庭園は、米沢の三名園の一つで、九山和尚の時代に京都天竜寺の名園をまねて造り、享保年中に、画家としても知られる小田切寒松軒が補修したと伝えられています。歴代の藩主も好んで訪ね、鷹山も、明和7年(1770)8月15日に家臣120余名を連れ、詩会を開いています。大正の大火後に、立町から番正町まで新道が開かれたため庭園が南北に分断し、池の水も涸れましたが、苔に覆われた庭園は新たな趣きをみせてくれます。新道を作る際、堀立川には擬宝珠の付いた朱塗りの「文殊橋」が架けられ、当時は米沢の名所の一つに数えられていました。
 境内の文殊堂は、二代目の絶山和尚が慶安元年(1648)に切戸の文殊(京都府宮津市)を勧請したものと伝えられています。元禄2年に立派なお堂が建てられましが、寛政元年、大正6年と二度の火災にあい、現在のお堂は昭和5年に再建されたものです。知恵の文殊として信仰され、元日や7月24日の例祭には多くの参拝者でにぎわいます。


イメージ 文殊堂

 文殊堂

 

 


イメージ 吉良上野介義央の奥方、三姫の墓

 吉良上野介義央の奥方、三姫の墓