謙信くん上杉の城下町 米沢 

米沢駅(写真)
米沢駅

 米沢は、長井氏、伊達氏、蒲生氏等が治めたことでも知られていますが、やはり、米沢と言えば上杉氏です。上杉氏と米沢について、簡単にお話しておきましょう。 米沢に来るならおさえておきたいポイントですからね!
 上杉氏といえば、上杉謙信を思い浮かべる方も多いと思います。謙信は、戦国の雄として、その名を全国にとどろかせたことで有名です。武田信玄との川中島の合戦は、戦国史上最大の戦いとして、歴史に刻まれています。
 謙信の跡を継いだ景勝は、慶長三年(1598)秀吉の命で、それまで居城としていた越後の春日山城から、会津百二十万石に転封されました。この際、米沢城には重臣直江兼続が配されました。その後、景勝は天下分け目の関ヶ原の戦いで西軍に加勢したことにより、慶長六年(1601)米沢三十万石に減封・移転されてしまうわけですが、これにより初代米沢藩主上杉景勝が誕生し、以来、米沢は、幕末の十三代藩主茂憲までの江戸時代約270年間上杉氏の城下町として発展し、今日に伝わる上杉士魂を育み続けたのです。


上杉家の名君
上杉謙信(1530~1578)

上杉謙信(鳥谷幡山筆)
米沢市上杉博物館蔵

連絡先:伝国の杜

 

 
戦さするなら、謙信公のように、と後世までも伝えられた上杉謙信は、米沢上杉家のいわば藩祖となります。越後守護代長尾為景の末子として春日山城に生まれ、禅寺に育ちましたが父の死後、国の乱れを鎮圧。のち、関東管領職の上杉家の名称を譲られ、越後・関東の平定につとめました。武田信玄や一向一揆と戦い、一向一揆をしずめ、武田信玄との川中島の戦などを戦い名将とうたわれましたが、天正六年急死しました。
 謙信は、近代戦術の祖ともいわれる戦さ上手でしたが、民政にもよく心を用いた名将といわれます。人物は清廉で、文学や道義にあつい文武両道の人であったようです。


上杉鷹山(1751~1822)


上杉鷹山
黒澤梧郎作 青年鷹山公

米沢市上杉博物館所蔵

 

連絡先:伝国の杜まで

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
バブル経済が崩壊してからは、鷹山の米沢藩改革に学び不況下経営のあり方を見ならおうというブームが巻き起こっています。上杉鷹山(治憲)は第九代米沢藩主。米沢藩は、三代綱勝の急逝により十五万石に減封されました。藩財政は逼迫し、八代重定は幕府に封土の返納を決意したほど。この救いようもない窮乏期に高鍋藩から養子に迎えられ、十七歳で藩主となったのが治憲(鷹山)です。治憲は大検の断行を誓い、自ら一汁一菜を実行し改革に着手しました。新領主への反感や老臣たちの大家意識を克服し、武士といえども時には刀を鍬に替えて国を養うことを自ら実践しました。農民の援助、殖産振興、開拓、水利事業など勤倹を旨とする民政の安定、経済の復興を図り、三十五歳で治広に家督をゆずってからも生涯藩政の安定に心をくだいた名君でありました